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前回の記事に「前篇」と銘打ったにもかかわらず、当然書かれるべきはずの後篇はどうにも億劫で延ばし延ばしにしているうちに2月が終わり、当初何を書こうとしていたかも忘れてしまった。そもそもこのブログの記事のハードルを少々高めに設定してしまった(といってもこの程度だが)ため、こうも腰が重くなるのであって、その上、何部にか分けて書くというのは未来の自分の努力を担保にしているため、どうにも健康でない。金を貰って書くわけでないのに、義務化してしまってはバカバカしいというものだろう。
よって、以上の苦しい言い訳とともにひと月以上も前のことはしれっと無視して、最近読んだ本について。
内田百閒のエッセイ『ノラや』(中公文庫)。
愛猫家のあいだでは定番の書であるらしい。僕は犬か猫のどちらが好きかと問われればまあ猫かなと答える程度には猫好きだが、猫を飼った経験はない。だからこれを手に取ったのは、タイトルが金井美恵子の『タマや』の元ネタとなったもので、それをたまたま古本屋で見つけたというだけのことだった。
70歳を前にした百鬼園先生が、自宅の庭に居付いた野良猫を「ノラ」と名づけ「野良猫のまま飼ふ」ことから始まるわけだが、おじいちゃんが慣れない生き物を観察し、たまにイタズラもし、次第に溺愛していく様子などはなかなか可愛らしくはある。だが幸せな日々は長く続かない。ある日ノラは庭から姿を消したまま戻らなくなる。
そこからの百閒先生の悲嘆の暮れようが、読んでいてさすがに苦笑を禁じ得ないのだが、まあ凄い。不憫なノラを思うとひとりでは食事も喉をとおらず、わざわざ膳を共にするために人を呼ばなければならない始末。いよいよ戻らないとなると新聞に広告を出し、以後も自宅周辺の地区を対象に折り込みチラシを入れるという形で断続的にその作戦は続き、しまいには外国人宅へ紛れ込んだのではないかという考えから英字新聞にまで広告を出してしまう。世間の人の親切に感謝しながら、また心ない嫌がらせに憤慨しながらノラ捜索に右往左往しているあいだに、ノラそっくりの猫が新たに庭に居付き、ノラと違って尻尾が短いことから「クルツ」と名づけて飼い始めることになるのだが、それでも心に去来するのはノラのことばかりで、失踪の日から一日一日を数えながら朗報を待ち続け、折につけて滂沱の涙を流す有様。結局ノラは再び姿を見せることなく、やがてクルツもまた病を患い帰らぬ猫となってしまう。
一度なくしたものが戻るということはなかなか難しいことかもしれないが、それと似たものが現れるということはままあるだろう。例ならいくらでも挙げられようが、同じ動物ということで例えば江國香織の『ぼくの小鳥ちゃん』。そこでは主人公の「ぼく」はある日いきなり現れた「小鳥ちゃん」を前にして、過去に飼っていた別の「小鳥ちゃん」のすっかり忘れていた記憶を思い出したり、同じ小鳥であるのにこうも違うのかと驚いてみたりはすれど、失ったものをめぐる態度は百閒のそれよりもはるかに毅然としている。まあ百鬼園先生の方がインターバルが短いというハンディはあるし、そもそも旧字体に拘り続けた文豪のエッセイと現代の人気作家の創作を比較すること自体ナンセンスかもしれないが、まあとにかく、色ボケならぬ「猫ボケじじい」という言葉がぴったりの、なんとも愚かしい(もちろんその分可愛げはある)本であった。
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星野智幸 『俺俺』 2010年
人間の生活が公私の2面に分けられるとしたら、前者には労働が、後者には家庭が割り振られるのだろう。両者に共通するのは、誰もがそのなかで自分にあてられた役割を演じているということであり、決定的な違いは、その役割が前者では代替可能で後者では不可能ということであろう。しかしこの代替可能性を逆転させて「私」の面へと導入するとどうなるか。
仕事が人間を育てるということは大いにあるらしい。とはいえ、人の個性が決定づけられるのは、基本的には「公」以前に私たちがつねに/すでにそこに放りこまれている「私」の面においてではないだろうか。そうすると、そこでの役割が代替可能となるならば、代わられる私と代わる彼は同じ人物であるということになってしまう。つまり誰もかれもが俺となる訳だ。
道で出逢うのは仏ではなく自分自身であり、自分と対面し、自分を殺せ。かつて岡本太郎は禅僧の会合の場でこう述べて喝采を浴びたらしいが、さすがの岡本太郎も疑心暗鬼となった大勢の俺同士がバトルロワイヤルさながらに殺しあう恐慌状態までは想像しなかったに違いない。その図は凄惨を極める。なぜならそれは、一見淘汰のヒエラルキーを昇っているかのように見えても、結局殺したのも殺されたのも俺であるのだから、殺した俺は殺された俺の弱さをも自分が備えていることに気づかざるをえず、自己嫌悪の泥沼にずぶずぶと沈み込んでいくほかないからだ。
なにかと評判の本書であるが、たしかにこれほど時代に要請されて存在の不安を書ききったものは珍しいだろう。リアルタイムで読むことができたのを喜びに思う。
人間の生活が公私の2面に分けられるとしたら、前者には労働が、後者には家庭が割り振られるのだろう。両者に共通するのは、誰もがそのなかで自分にあてられた役割を演じているということであり、決定的な違いは、その役割が前者では代替可能で後者では不可能ということであろう。しかしこの代替可能性を逆転させて「私」の面へと導入するとどうなるか。
仕事が人間を育てるということは大いにあるらしい。とはいえ、人の個性が決定づけられるのは、基本的には「公」以前に私たちがつねに/すでにそこに放りこまれている「私」の面においてではないだろうか。そうすると、そこでの役割が代替可能となるならば、代わられる私と代わる彼は同じ人物であるということになってしまう。つまり誰もかれもが俺となる訳だ。
道で出逢うのは仏ではなく自分自身であり、自分と対面し、自分を殺せ。かつて岡本太郎は禅僧の会合の場でこう述べて喝采を浴びたらしいが、さすがの岡本太郎も疑心暗鬼となった大勢の俺同士がバトルロワイヤルさながらに殺しあう恐慌状態までは想像しなかったに違いない。その図は凄惨を極める。なぜならそれは、一見淘汰のヒエラルキーを昇っているかのように見えても、結局殺したのも殺されたのも俺であるのだから、殺した俺は殺された俺の弱さをも自分が備えていることに気づかざるをえず、自己嫌悪の泥沼にずぶずぶと沈み込んでいくほかないからだ。
なにかと評判の本書であるが、たしかにこれほど時代に要請されて存在の不安を書ききったものは珍しいだろう。リアルタイムで読むことができたのを喜びに思う。
この頃なんだか小説熱に浮かされているみたいだ。
本を読んでりゃ偉いってわけではもちろんないけれど、読んでいないと話にならないってことはままあるのだし、そして読むべき本はまだまだ多い。それは小説に限らずね。
ひとまずここ最近読んだものだけ忘れないようにリストアップ。気が向いたら簡単なコメントを添えて。
坂口安吾『白痴』
井伏鱒二『黒い雨』
島崎藤村『破戒』
模範的ともいえる主人公の懊悩っぷり。彼の破戒には自戒の念を喚起さる。
深沢七郎『楢山節考』
コンラッド『闇の奥』
むしろサイードを読むための準備として。
阿部和重『アメリカの夜』
愛すべき馬鹿はデビュー作から顕在。谷崎潤一郎賞を祝して。
サルトル『自由への道』
全6巻、今のところ2巻まで。色彩のなかに物憂げなパリの夜が映る。エグイ内面描写に初期の大江が影響を受けているというのにも納得。
大江健三郎『性的人間』
糞真面目な馬鹿ほど恐ろしく面白いものはない。
本を読んでりゃ偉いってわけではもちろんないけれど、読んでいないと話にならないってことはままあるのだし、そして読むべき本はまだまだ多い。それは小説に限らずね。
ひとまずここ最近読んだものだけ忘れないようにリストアップ。気が向いたら簡単なコメントを添えて。
坂口安吾『白痴』
井伏鱒二『黒い雨』
島崎藤村『破戒』
模範的ともいえる主人公の懊悩っぷり。彼の破戒には自戒の念を喚起さる。
深沢七郎『楢山節考』
コンラッド『闇の奥』
むしろサイードを読むための準備として。
阿部和重『アメリカの夜』
愛すべき馬鹿はデビュー作から顕在。谷崎潤一郎賞を祝して。
サルトル『自由への道』
全6巻、今のところ2巻まで。色彩のなかに物憂げなパリの夜が映る。エグイ内面描写に初期の大江が影響を受けているというのにも納得。
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糞真面目な馬鹿ほど恐ろしく面白いものはない。
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アウトプットもたまにはね
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