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孤独な趣味の世界
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今年はあまり映画館へ映画を観に行けなかった。ただこればかりは観ておかなければならないと思っていたのがこの『サウダーヂ』だ。ずいぶん前から公開していたようなのだけれど、ようやく今日、いやもう昨日か、渋谷シネマライズにて観ることができた。

富田克也監督/空族制作の前作『国道20号線』を、僕は幸い昨年長野の山奥で開かれた「なんとかフェス」という野外フェスにおいて、そそり立つ巨岩を背景にした何とも非現実的なセッティングで観ることができていたのだけれど、それは地方都市のどん詰まり感をニヒリスティックなまでに乾いたユーモアを交えながら描き鑑賞後にはズッシリと残る優れた作品であった。この『サウダーヂ』も同じく監督の出身地である甲府を舞台に展開するが、その射程は前作をはるかにしのぐ広がりを見せており、なおかつ富田監督は交錯し、すれ違う様々な人々の視点を極めて冷静に捌いてる。

「サウダーヂ」とはあえて和訳すれば「郷愁」となるが、日本語における「もののあはれ」のように、ブラジル人たちにとってはある種の特別なニュアンスをたたえる言葉であるらしい。
産業の衰退する街に生きる、孫請けの地元の土方、仕事にありつけない日系ブラジル人、フィリピンパブで働くタイ人ホステス、クラブに集まる若者たちのこの群像劇では、どうしようもない現実のなかでほとんど誰もが自分が本来いるべき場所から離れて生きていると感じ、それぞれが時にはまだ見たこともないようなその懐かしい「ココデハナイドコカ」を夢見ている。しかし彼らの「郷愁」は決して重なり合うことのないまま、焦燥や虚無感、あるいは憤懣や鬱屈ばかりが積もっていく。

この映画に関してはすでに色々な人が色々なことを言っているようだし、それに僕が付け加えられることも特にないのだけれど、「酩酊せずにはやってられない」という感覚、そう言ったのは宮台真司だったか、とにかくそうした感覚は、自分の地元の状況を顧みても嫌なぐらいのリアリティーをもって共有できるものであった。
間違いなく傑作!



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ヤスミン・アフマド監督 『ムクシン』 2006年



 机に広げられた教科書の下に、アッラーへの感謝と賞讃とがアラビア語で綴られたノートが覗いている。授業の終わりを告げるベルが鳴りだし、椅子から立ち上がる音がガタガタといくつも重なり合って響いているうちに、後方から教室全体を映すようキャメラが切り替わる。生徒は男女入り混じっているが、女の子のうちの幾人かはヴェールを頭に纏っている。黒板に板書されているのは漢字だ。立ち上がり身支度を整えた子供たちは、号令係の合図で、一斉に教師へ向かってお辞儀をし「再見」と言うやいなや、挨拶を返す教師には注意も払わず、我先にと教室の外へ走り出していく。
 ヤスミン・アフマド監督の映画、『ムクシン』の冒頭シーンである。ヒロインのオーキッドが通う学校の日常風景を映したこのものの数分の間に見事に描きだされているのは、舞台となるマレーシアの多民族的、多文化的な様相である。映画はこのオーキッドとムクシンという少年との淡い初恋を軸としているが、あちこちに様々な人の多種多様な価値観が立ち現れる。
 たとえば言語ひとつとってみても、オーキッドはマレー系の少女であるが、イギリス留学の経験を持つ母は家庭内で英語を話し、また、両親の意向で中国語を習得するために中華系の学校へ通っている。映画のなかでは彼女はおもにマレー語と英語を話すが、彼女の部屋には、片隅にある黒板にその日の出来事が中国語で絵日記風に書かれている。字幕にも反映されないため中国語を解さないわたしにはその内容を理解することができないのが残念だが、それは、おそらく彼女の心理を把握するための重要な装置のひとつとなっているのだろう。また、自転車の二人乗りをしながら、オーキッドがムクシンにマレー訛りのイギリスアクセントで英語を教えるという、なんとも可愛らしいシーンもある。
 娘のオーキッドに世界的言語の英語と、今後重要性が増していく中国語を学ばせていることから、両親は子供の教育に熱心なのかと思いきや、実際は色々と指示はするが娘の意思を慮る、おおらかでリベラルな家庭である。父親はオーキッドの機嫌が悪い時にはいつもサッカー観戦を餌に釣ろうとするし、また、オーキッドの素行に文句を言いに家まで来た同級生の家族を母親がオーキッドと共謀して煙に巻いてしまうところなどは、この家族の性格をよく説明するものだろう。
たしかに、特にイギリス帰りの母親などは、父親のバンドが奏でる音楽にあわせて雨も人目も気にせずに踊るなどして、隣の家の嫌味なオバサンに「ジャワ人の誇りはどこへ行った」とチクチク言われたりもするが、しかし彼らとて、そうした傾向が少々あるにせよ、まったく伝統にとらわれないというわけでもない。雛鳥を殺してしまった飼い猫は、可愛がっていたオーキッドがいくら落ち込もうと、已むに已まれず遠くへ捨てに行くし、たまには一家全員でモスクへ行ってクルアーン読誦をすることも忘れない。オーキッドの家族はこうした交錯する価値観を、それに混乱することもなく、ごく自然に生きている。そのことは、貫禄のある家政婦が特製のチョコレートアイスを作りながら、夫婦が毎日いっしょに風呂に入っているのを笑いながら話す印象的なシーンがよく表しているように思う。
しかしながら、もちろん、すべての人がこのように平静であるわけではない。オーキッドの家の隣に住む、意地悪な女性の存在はすでに述べた。彼女ははじめ伝統的価値観を重んじるかのような口ぶりを見せるのだが、その夫は町でも名物オヤジとして有名な、赤いバイクをこよなく愛すアメリカかぶれのカウボーイ・マンだ。その夫が妊娠中であるにもかかわらず自分から離れていくのを感じており、仲睦まじい隣人夫婦を見るにつけ、嫉妬と焦燥を募らせている。
もうひとつのより重要な例は、主人公ムクシンの家庭だ。ムクシンとその兄は、家庭内で暴力をふるう父親から逃げるため、ひと夏のあいだ、母方の叔母の家へと身を寄せている。叔母は善良な人だが、かつてホステスとして働いていたとしてスティグマを張られているようだ。12歳のムクシンは自分の力を誇示することで、その土地の子供たちのコミュニティーに入ることに成功し、すぐにオーキッドと会うこととなるが、悲惨なのはムクシンの兄の方である。幼い二人が無邪気に時を過ごす一方、彼は一人街をうろつき、毎日深夜に酒とタバコの匂いを撒き散らしながら叔母の家へ帰ってくるという荒んだ生活を送る。母親の声を聞こうと何度電話をしても、祖母が絶対に継いでくれないことも彼の苛立ちを煽る。彼はやがて母の死を知り、ムクシンは予兆的な夢をみた後、オーキッドに別れを告げなければならなくなる。
しかしこのような人物であっても、あまり深刻になりすぎず、コミカルに描かれているのがこの映画の特徴である。多元的な価値観の交錯がもたらす矛盾や葛藤は現実のマレーシア社会ではより多く様々な形で噴出しているのであろう。そういった厳しい現実をリアリスティックに描くのも一つの手段であり、そのような映画は数多く世に出ている。だが、この映画がこうも楽園的な温かみに満ち満ちているのは、幼年期の初恋というテーマへのノルタルジックな感傷もあるかもしれないが、やはり、それぞれの現実を生きる人々の生を、ヤスミン・アフマドは、優しい眼差しでもって見つめ、肯定しているからに違いない。
ラッセル・クロウ監督 『あの頃ペニー・レインと』 2000年


 So I called up the Captain
 'Please bring me my wine'
 He said
 'We haven't had that spirit here since 1969'
 And still those voices are calling from far away,
 Wake you up in the middle of the night
 Just to hear them say...

 そして僕は管理人を呼びワインを頼んだ
 彼が言うには
 「1969年よりこちらはその酒を置いていません」
 その上まだ、あの遠くから呼ぶ声が聞こえる
 真夜中に覚醒させ、耳を傾けるほかないあの声が


 上に挙げたのは1976年に発表されたイーグルスの代表作『ホテル・カリフォルニア』のタイトル・トラックのあまりにも有名な一節である。ワインを求める客に対するホテル・カリフォルニアの管理人の返答は、ロックの黄金時代の終焉を告げている。
 1973年を舞台にしたこの映画の冒頭、カリフォルニアの街を行く車のなかから眺めるように、同アルバムのジャケットが連想される風景が映される。つまりそれが意味するのは、これは、決定的に乗り遅れてしまった先行する物語に対して抱く年少者の憧憬を描いた映画なのだということ。
 主人公のウィリアムは、かつて家を出て行った姉からレコードを譲り受けたことからロックに傾倒した早熟な15歳の少年。ロックへの情熱を共有できる仲間も見つからぬまま、学級新聞等にロックの記事を書いていたところ、伝説のロック誌クリームの編集長と出会い、薫陶を受ける。そこからホイホイと、スティルウォーターという新進のバンドのツアーに同行し、その記事をローリング・ストーン誌に書くことに話が進む。そして彼はバンドのグルーピーの少女、ペニー・レインと出会うこととなる。
 彼がロックに目覚めた頃、すでにロックはその輝きを失い始めていた。ウッドストックはとうに終わり、ビートルズは解散し、サイケデリックの花を咲かせた三人のスターが死んでいた。誰もがすでに語られた物語ばかりを追いかけ、夜毎の乱痴気騒ぎのなかでロックは自己パロディを繰り返し、様式化し始めた。
 ウィリアムはとうとう憧れの世界に飛びこめたことに舞い上がる。さらに、その世界で堂々と振舞う同年代のペニーに叶わぬとは知りながら想いをよせるようになる。しかし次第に矛盾は蔽い隠すことができなくなっていく。ツアーが終わると二人はバンドを去って、彼は記事を書き、彼女はかねてより望んでいたモロッコへと旅立つ。
 それは一見、彼らが自らの新しい道を進むと決めたかのように思える。しかし、ウィリアムは記事を書くにあたってクリーム誌の編集長に助言を求め、ペニーの旅先はヒッピーズム華やかりし頃の聖地巡礼の最もアクセスの容易な土地ときている。彼らは結局、また誰かの物語を模倣/反復しているのだ。そう考えるのはなんとももの悲しくはあるが、いみじくもジョン・レノンの言葉通り、「夢は終わった」ということなのだろう。
 時代と青春期に対する懐古の念に満ちた映画だ。

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