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孤独な趣味の世界
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ヤスミン・アフマド監督 『ムクシン』 2006年



 机に広げられた教科書の下に、アッラーへの感謝と賞讃とがアラビア語で綴られたノートが覗いている。授業の終わりを告げるベルが鳴りだし、椅子から立ち上がる音がガタガタといくつも重なり合って響いているうちに、後方から教室全体を映すようキャメラが切り替わる。生徒は男女入り混じっているが、女の子のうちの幾人かはヴェールを頭に纏っている。黒板に板書されているのは漢字だ。立ち上がり身支度を整えた子供たちは、号令係の合図で、一斉に教師へ向かってお辞儀をし「再見」と言うやいなや、挨拶を返す教師には注意も払わず、我先にと教室の外へ走り出していく。
 ヤスミン・アフマド監督の映画、『ムクシン』の冒頭シーンである。ヒロインのオーキッドが通う学校の日常風景を映したこのものの数分の間に見事に描きだされているのは、舞台となるマレーシアの多民族的、多文化的な様相である。映画はこのオーキッドとムクシンという少年との淡い初恋を軸としているが、あちこちに様々な人の多種多様な価値観が立ち現れる。
 たとえば言語ひとつとってみても、オーキッドはマレー系の少女であるが、イギリス留学の経験を持つ母は家庭内で英語を話し、また、両親の意向で中国語を習得するために中華系の学校へ通っている。映画のなかでは彼女はおもにマレー語と英語を話すが、彼女の部屋には、片隅にある黒板にその日の出来事が中国語で絵日記風に書かれている。字幕にも反映されないため中国語を解さないわたしにはその内容を理解することができないのが残念だが、それは、おそらく彼女の心理を把握するための重要な装置のひとつとなっているのだろう。また、自転車の二人乗りをしながら、オーキッドがムクシンにマレー訛りのイギリスアクセントで英語を教えるという、なんとも可愛らしいシーンもある。
 娘のオーキッドに世界的言語の英語と、今後重要性が増していく中国語を学ばせていることから、両親は子供の教育に熱心なのかと思いきや、実際は色々と指示はするが娘の意思を慮る、おおらかでリベラルな家庭である。父親はオーキッドの機嫌が悪い時にはいつもサッカー観戦を餌に釣ろうとするし、また、オーキッドの素行に文句を言いに家まで来た同級生の家族を母親がオーキッドと共謀して煙に巻いてしまうところなどは、この家族の性格をよく説明するものだろう。
たしかに、特にイギリス帰りの母親などは、父親のバンドが奏でる音楽にあわせて雨も人目も気にせずに踊るなどして、隣の家の嫌味なオバサンに「ジャワ人の誇りはどこへ行った」とチクチク言われたりもするが、しかし彼らとて、そうした傾向が少々あるにせよ、まったく伝統にとらわれないというわけでもない。雛鳥を殺してしまった飼い猫は、可愛がっていたオーキッドがいくら落ち込もうと、已むに已まれず遠くへ捨てに行くし、たまには一家全員でモスクへ行ってクルアーン読誦をすることも忘れない。オーキッドの家族はこうした交錯する価値観を、それに混乱することもなく、ごく自然に生きている。そのことは、貫禄のある家政婦が特製のチョコレートアイスを作りながら、夫婦が毎日いっしょに風呂に入っているのを笑いながら話す印象的なシーンがよく表しているように思う。
しかしながら、もちろん、すべての人がこのように平静であるわけではない。オーキッドの家の隣に住む、意地悪な女性の存在はすでに述べた。彼女ははじめ伝統的価値観を重んじるかのような口ぶりを見せるのだが、その夫は町でも名物オヤジとして有名な、赤いバイクをこよなく愛すアメリカかぶれのカウボーイ・マンだ。その夫が妊娠中であるにもかかわらず自分から離れていくのを感じており、仲睦まじい隣人夫婦を見るにつけ、嫉妬と焦燥を募らせている。
もうひとつのより重要な例は、主人公ムクシンの家庭だ。ムクシンとその兄は、家庭内で暴力をふるう父親から逃げるため、ひと夏のあいだ、母方の叔母の家へと身を寄せている。叔母は善良な人だが、かつてホステスとして働いていたとしてスティグマを張られているようだ。12歳のムクシンは自分の力を誇示することで、その土地の子供たちのコミュニティーに入ることに成功し、すぐにオーキッドと会うこととなるが、悲惨なのはムクシンの兄の方である。幼い二人が無邪気に時を過ごす一方、彼は一人街をうろつき、毎日深夜に酒とタバコの匂いを撒き散らしながら叔母の家へ帰ってくるという荒んだ生活を送る。母親の声を聞こうと何度電話をしても、祖母が絶対に継いでくれないことも彼の苛立ちを煽る。彼はやがて母の死を知り、ムクシンは予兆的な夢をみた後、オーキッドに別れを告げなければならなくなる。
しかしこのような人物であっても、あまり深刻になりすぎず、コミカルに描かれているのがこの映画の特徴である。多元的な価値観の交錯がもたらす矛盾や葛藤は現実のマレーシア社会ではより多く様々な形で噴出しているのであろう。そういった厳しい現実をリアリスティックに描くのも一つの手段であり、そのような映画は数多く世に出ている。だが、この映画がこうも楽園的な温かみに満ち満ちているのは、幼年期の初恋というテーマへのノルタルジックな感傷もあるかもしれないが、やはり、それぞれの現実を生きる人々の生を、ヤスミン・アフマドは、優しい眼差しでもって見つめ、肯定しているからに違いない。
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テーマに沿って選んだCDジャケットの割と大きめの写真を並べて眺めるというただそれだけの手抜きコーナー、まさかの二回目! 今回のテーマは「顔ジャケ」
アーティストは自己主張の強いものだとはよく言われますが、そのような一般論の妥当性は置いておくにせよ、作品の顔ともいえるジャケット写真にどどんと自らの顔をアップで映すさまにはやはり並々ならぬ自信を感じずにはいられません。私見では、実際、そのようなインパクトの強い「顔ジャケ」は、内容も優れている場合が多いようにも思います。なお、ここでの「顔ジャケ」の条件は、頭も含め顔がすべて映りきれていないほどアップで撮られていることとします。
ということで、見ていきましょう。



Aphex Twin Richard D. James Album
いきなり怖いやつ!



Ian Condry Hip-Hop Japan: Rap and the Paths of Cultural Globalization 2006 Duke University Press


In this ethnography of Japanese hip hop, the author Condry focuses one of the four elements which constitute hip hop culture: rap. It is because rap has much more to do with language than deejaying, breaking or graffiti, and it, therefore, reflects the characteristics of Japanese hip hop most eloquently.
Throughout the book, Condry consciously avoids using easy dichotomies; globalization or localization, party rap or underground hip hop, market success or hard core fandom, and the like. Instead, he uses Japanese term genba, actual sites where interactions among many kinds of people(emcees, deejays, fans, club owners, executives of record companies and so on) take place, as a key tool of analysis.

Although hip hop in Japan, as Condry explains, has got more popularity through this decade than it had before, it, especially rapping in Japanese, still seems somewhat stigmatized, for example, as an embarrassing, unnatural imitation of African Americans. Even if so, it is also true that for some young Japanese it has become a real way of expression. Here I give two examples.
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プロフィール
HN:
tkm
性別:
男性
自己紹介:
東京在住の学生です
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