咳をしても一人 忍者ブログ
孤独な趣味の世界
Admin / Write
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


 前回の記事に「前篇」と銘打ったにもかかわらず、当然書かれるべきはずの後篇はどうにも億劫で延ばし延ばしにしているうちに2月が終わり、当初何を書こうとしていたかも忘れてしまった。そもそもこのブログの記事のハードルを少々高めに設定してしまった(といってもこの程度だが)ため、こうも腰が重くなるのであって、その上、何部にか分けて書くというのは未来の自分の努力を担保にしているため、どうにも健康でない。金を貰って書くわけでないのに、義務化してしまってはバカバカしいというものだろう。
 よって、以上の苦しい言い訳とともにひと月以上も前のことはしれっと無視して、最近読んだ本について。
 内田百閒のエッセイ『ノラや』(中公文庫)。
 愛猫家のあいだでは定番の書であるらしい。僕は犬か猫のどちらが好きかと問われればまあ猫かなと答える程度には猫好きだが、猫を飼った経験はない。だからこれを手に取ったのは、タイトルが金井美恵子の『タマや』の元ネタとなったもので、それをたまたま古本屋で見つけたというだけのことだった。
 70歳を前にした百鬼園先生が、自宅の庭に居付いた野良猫を「ノラ」と名づけ「野良猫のまま飼ふ」ことから始まるわけだが、おじいちゃんが慣れない生き物を観察し、たまにイタズラもし、次第に溺愛していく様子などはなかなか可愛らしくはある。だが幸せな日々は長く続かない。ある日ノラは庭から姿を消したまま戻らなくなる。
 そこからの百閒先生の悲嘆の暮れようが、読んでいてさすがに苦笑を禁じ得ないのだが、まあ凄い。不憫なノラを思うとひとりでは食事も喉をとおらず、わざわざ膳を共にするために人を呼ばなければならない始末。いよいよ戻らないとなると新聞に広告を出し、以後も自宅周辺の地区を対象に折り込みチラシを入れるという形で断続的にその作戦は続き、しまいには外国人宅へ紛れ込んだのではないかという考えから英字新聞にまで広告を出してしまう。世間の人の親切に感謝しながら、また心ない嫌がらせに憤慨しながらノラ捜索に右往左往しているあいだに、ノラそっくりの猫が新たに庭に居付き、ノラと違って尻尾が短いことから「クルツ」と名づけて飼い始めることになるのだが、それでも心に去来するのはノラのことばかりで、失踪の日から一日一日を数えながら朗報を待ち続け、折につけて滂沱の涙を流す有様。結局ノラは再び姿を見せることなく、やがてクルツもまた病を患い帰らぬ猫となってしまう。
 一度なくしたものが戻るということはなかなか難しいことかもしれないが、それと似たものが現れるということはままあるだろう。例ならいくらでも挙げられようが、同じ動物ということで例えば江國香織の『ぼくの小鳥ちゃん』。そこでは主人公の「ぼく」はある日いきなり現れた「小鳥ちゃん」を前にして、過去に飼っていた別の「小鳥ちゃん」のすっかり忘れていた記憶を思い出したり、同じ小鳥であるのにこうも違うのかと驚いてみたりはすれど、失ったものをめぐる態度は百閒のそれよりもはるかに毅然としている。まあ百鬼園先生の方がインターバルが短いというハンディはあるし、そもそも旧字体に拘り続けた文豪のエッセイと現代の人気作家の創作を比較すること自体ナンセンスかもしれないが、まあとにかく、色ボケならぬ「猫ボケじじい」という言葉がぴったりの、なんとも愚かしい(もちろんその分可愛げはある)本であった。
PR
 もう1月もすでに終わり、まあ年越しを挟んで旅に出ていたにしてもすでに帰国してから2週間たってるし今さらという感がありありとしているのだけど、どうせ読者の極端に少ない個人のレビューブログなんだから別にかまわないだろうということで鮮やかに無視して、ここらで昨年の僕と音楽の関係を振り返ってみよう。
Darwin's Theory - Darwin's Theory 2010年という年は、僕のなかではレアグルーブに本格的にのめり込みだした年として特徴づけられるかもしれない。それはおそらく、その過去の優れた音楽を掘り起こす温故知新の精神が手放さないアナログへの執着が、夏が始まるころに、僕が一人暮らしを始めるときに兄から譲り受け、合計すると7年の長きにわたって酷使され続けたCDプレーヤーがおシャカになったという個人的な事情とマッチしたということもあるのかもしれない。そういうわけで、昨年一番繰り返し聴いたアルバムは、この『ダーウィンズ・セオリー』で間違いないだろう。非常にのんびりとしたペースでいつも優れた再発を提供してくれるアメリカのロータス・ランドが満を持して発表した本作は、78年にダーウィン・ジョーンズという人物を中心にスライ・ストーンのプライベート・スタジオにて録音されたまま世に出ることなく眠っていた珠玉の音源をコンパイルしたものなのだか、低音がやけに強調された店頭の視聴機で"Keep on Smiling"のウネり跳ねるベースと喜びに満ちたコーラスを初めて耳にしたとき、僕はその場で膝から崩れ落ち感涙にむせび泣き始めるのを紙一重でなんとかこらえ、そのまま勇み足でレジへと向かったのだった。この他にもザ・ジョン・ダンサー・オクテット『ザ・ダンサーズ・インフェルノ』、マシュー・ラーキン・カッセルのコンプリート盤、ザ・ブリーフ・エンカウンターのセルフタイトル・アルバムなど、素晴らしい作品が目白押しであった。
 しかし、こうした過去の幻の音源たちを、いくらそれが数十年の時を経て再び、あるいは初めて巷間に問われたからといって、「2010年の音」として取り上げるのは、やはりいくらかつらいところがある。ならばリイシューではなく、新たに制作され発表された新譜のみを見た場合どうかというと、僕自身決して熱心なリスナーではなかったためこう言うのは少々はばかられるのだが、特にこれといった作品もなく、なんともぱっとしない一年だったという印象である。
Sade - Soldier of Love 特にガッカリしたのはシャーデーの10年ぶりの新作『ソルジャー・オブ・ラヴ』。その落胆は先行シングルでタイトルトラックの"Soldier of Love"に多くを負うのだけど、それというのも、前作『ラヴァーズ・ロック』で頭にガツンと一撃くらって以来シャーデーのディスコグラフィーを網羅しその音楽を聴き続けた者としては、いくらなんでも流行に迎合しすぎだという気がしたし、相変わらずシャーデー・アデュが素晴らしい歌声と美貌を保っているのはわかったにしても、51歳にもなってミリタリー・ダンスを披露しジャケットでは大胆に背中を露わにする姿(18年前の『ラヴ・デラックス』におけるヌードとはまったく意味が異なるというものだろう)に痛々しさを感じずにはいられなかったのだ。アシッド・ジャズというかつての流行の最先端からキャリアをスタートさせたシャーデーは、リSade - Lovers Rockリースの周期が長くなるにつけ時代を超越した孤高のバンドとでもいった趣きを帯びるようになっていったが、下世話な話、存在が大きくなるほどマーケットを無視できなくなるという側面はあるのだろう。前作の成功も、その裏にソウルクエリアンズらの活躍に代表されるようなネオ・ソウルの見直しという大きな流れがあってのことであろうし、そう考えるとジャンルの垣根がいっそう低くなりR&Bにおいてもエレクトロ旋風が巻き起こった2010年というのは、彼らにとって決して良いタイミングではなかったのではという思いがしてくるのだ。実際に今作を改めて聴いてみるとそれほど悪くはないのだが、前2作の名盤に比べるとどうしても緊張感に欠けてしまうし、1曲たりとも、"Kiss of Life"や"By Your Side"に匹敵するようなものはない。前年の2009年にマクスウェルがシャーデー・サウンドのキー・メイカーであるステュアート・マシューマンから離れてあれだけ優れたアルバムを出していただけに、いっそう残念に感じてしまうシャーデーの新作なのであった。
e97a200e.jpg シャーデーのこととなるとつい饒舌になってしまうが、昨年は他にもドゥウェレやビラルなど僕が日頃から追いかけているネオソウル周辺のリリースはあったが(どちらも決して悪くはないが特別良くもなかった)、2010年ベスト・アルバムを決めるならば毎回間違いないブツをリリースしてくれるストーンズ・スロウから出たアロー・ブラックの『グッド・シングズ』になるだろう。先行シングル"I Need A Dollar"の堂々たる態度も良かったし、オーセンティックなソウル・マナーを披露したかと思えばヴェルヴェッツのカバーなんて意外な飛び道具使ってきたりと、非常に楽しめるアルバムである。近年の正統派ソウルとしてはアンソニー・ハミルトンの2ndアルバムと並ぶといっても過言ではない、かも。
 ベスト・シングルとしては、上のアロー・ブラックと迷うところだけど、ジミ・テナー&トニー・アレンの"Selfish Gene"を選びたい。旅のあいだも、ネットカフェに入ってはよくYoutubeでこの曲を聴いたものだったから。

Jimi Tenor & Tony Allen - Selfish Gene

 写真を撮ることに興味を覚えはじめたのは何年も前のことになるけれど、奮発して買ったデジタルカメラで撮った写真はデータとしてハードディスクに蓄積され、そのうちのごく少数が画面上で何度か再生されるだけだった。だからこうして写真屋さんに撮ったもの(フィルムではなくデータの形ではあるが)を持ち込み、それが現像されるのを待って、印刷された写真を取りに行き、そしてそれを一枚一枚並べてアルバムを作るという経験をするのは本当に久しぶりのことだった。それどころか、このようにして、SNSなどインターネット上に載せるときのように他人から見られることを期待するのではなく、純粋に個人的な愉しみとして、ただ自分が通過したある一定の期間を封じて保存するために、写真を用いたのは初めてのことかもしれない。「モロッコにて」とごく単純に、ただしアラビア語で題されたそのアルバムは、なかには我ながらとても良いと思う写真もいくつかあるのだけれど、望む人がいれば見せることもあるかもしれないとはいえ、それを当てにすることなくこれからずっと僕の本棚の一角にひっそりと並べられ続けることだろう。そして一年に一度くらい、あるいはもっと稀に、気が向いたときに手にとって埃を払い、見返しては当時の記憶や感情に浸るのだ。そうしたきわめて自己満足的で贅沢な使い方を僕は望む。
 そして人知れず朽ちていく運命にあるそれらの写真を撮った3か月にわたるモロッコの旅もまた、ごく個人的なものであった。この旅という言葉を、それに宿命的に伴う気恥かしげなロマンティシズムと、その下に隠蔽された矛盾や悲惨さをも肯定したうえで僕は用いている。長くも短くもある3か月のあいだ、一つの国のあらゆる土地に赴こうとし、僕はたくさんの人に会い、それよりも多くの人とすれ違った。さまざまな光景を見たが、すべてを見ることはできなかった。色々なことを感じ考えたが、大部分の時間は無感覚のまま過ぎていった。そもそもが行くこと以外に確たる目的を持たない旅だったのだ。だから何もここで総括や結論じみたことを述べる必要もあるまい。どちらにせよ、旅など決してたいしたものではないのだ。あんなものは、十分な資金さえあれば少々の気まぐれを起こすだけで誰にでもできる。
 自分の訪れた街々をエキゾチックに飾り立てることもできるし、ある種の体験を冒険と名付けて語ることもできる。モロッコ人や旅人、それからもちろん自分自身の欺瞞を暴きだすこともできるだろう。けれどもここでは余計な事には口をつぐみ、すでに帰国から数日経っているものの、必要最低限のあの言葉を一言いうだけにとどめようと思う。
 どうも、ただいま帰りました。
1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11 
プロフィール
HN:
tkm
性別:
男性
自己紹介:
東京在住の学生です
アウトプットもたまにはね
つぶやき
最新CM
[07/27 まりすけ]
[11/05 まりすけ]
[09/13 tkm]
[09/12 NONAME]
[08/12 tkm]

忍者ブログ [PR]